記録としての3月11日の話。
ここに書くのは、3月11日の僕が仕事場から家まで歩いた時の話です。
読み物でもなく、単なる記憶をとどめるための記録のようなものです。
長いです。面白くないです。
なので、読まないでいただいていいですよ。
本当に面白くないと思うから。
--------------------------------------------------
前日の20時くらいまで僕は清里にいた。
いつものように清里を車で後にし、普通に中央道を走りぬけて
自宅のある千葉県市川市にたどりついた。
特に変わった事もなく、インターを降りて自宅へ向かった。
ただ一つ違っていたのは、
車の中から見た低い夜空に浮かぶ月が、
今まで見た事もないくらい大きく、
そして気持ちの悪いくらい赤かったこと。
------------------------------------------------
この地震が起きた日、起きた時、
僕はそれまでは普通に仕事をし、
昼ご飯を食べに出ていた。
場所は会社のあるすぐ近くのビルのB1。
食べ終わって、タバコを一本吸い終わったちょうどその頃
地震は始まった。
------------------------------------------------
ゆっくりとした揺れに始まり、その揺れはどんどん強さを増していく。
関東は地震の多い所で、慣れてはいるけれど、
普段ならそろそろおさまるだろうと、心も体も予期しているのに、
あっさりとそれを裏切る感じで揺れは強くなり、ずっと続いていた。
ちょっと不謹慎な例えかもしれないが・・・
富士急ハイランドのフジヤマに乗った事があるだろうか?
登ってから急降下するあの時、
通常のジェットコースターならもう上りに移るだろう、と
体は反応してるのに、それでもまだ落ち続ける
その時の怖さは、それに似ていた。
以前から噂されていた関東大震災、東海地震がついに来た!
そう思った。
とりあえず、職場に戻り、状況確認を、
なんてことも頭をよぎるが、とても外に出られるどころではない。
食事をしていた店の、天井から吊るされた重そうな金属の傘をまとった
電灯は今にも天井にぶつかるのではないか?
と思えるくらい大きく揺れていた。
厨房にあるグラスなどが大きな音を立てている。
地鳴りのような音も聞こえてくる。
店内にいたお客さんの中にはパニックになって外に飛び出す人もいた。
テーブルの下に隠れる人もいた。
まさに騒然としていた。
正直、自分がどうしたらいいのか分からなかった。
外に出たい気持ちもあるが、ビルの窓ガラスが割れて落ちてきたら・・・
こんな地下にいて、もしビルが崩れたら・・・
おさまらない揺れの中、考える余裕がない中で、
色々な事が頭に浮かぶ。
ひょっとしたら、ここでもう・・・
という思いすら頭をよぎった。
それでも、平静を装っていた気がする。
顔はひきつっていたのかもしれないけれど。
とりあえず、揺れが収まったところで、会計を済ませて、
仕事場へ戻った。
仕事場でのことはとりあえず省く。
ただ、仕事場の建物も場所によっては、それなりの被害損壊が出た事、
建物の外も人があふれ、すごい状態であったことだけは書いておきたい。
------------------------------------------
続いてやってくる大きな余震の中、
職場でやることをやる。
頭にあったのは家族の事。
嫁は所用で外出していた。
仕事の合間に携帯で電話するも、電話はまるでつながらない。
メールも送れない状態の中、何度か送信を繰り返し、
とりあえず送れた。
しばらくして、返事が来て、無事であることを知る。
赤ん坊を連れた友人と一緒で、友人の自宅へ向かう事も
書かれていた。
自宅には僕の母親が一人でいる。
公衆電話から固定電話なら通じる事を聞き、かけてみる。
無事ではあるが、かなり動揺している様子がうかがえた。
自宅の様子聞き、とにかく自宅にいるように話した。
----------------------------------------------------
あれだけの地震だったので、東京の電車はことごとく止まっていた。
まぁ、想定される事ではあったけれど。
仕事場から、帰れる者は帰っていい、という指示が出る。
帰れない者は、会社に泊まって構わない、とも。
会社に泊まることも考えたが、今日は嫁が帰れない以上、
一人でいる母親の事を考え、
自宅へ戻る事にした。
携帯の地図で自宅までの道を確認する。
距離は20キロちょっと。
便利な物でスマートフォンでは、地図が見られるだけでなく、
徒歩でのナビまでしてくれる。
それによれば時間は4時間と出ていた。
会社の建物を出る。
その人の多さにまた驚かされた。
通常のどんな夜よりも人が多い。
仕事場のある東京 池袋の大きな祭りの日よりも
人が多かった気がする。
そんな中僕は歩きだした。
--------------------------------------------------
人ゴミをすり抜けるように歩く。
自分のペースで歩けないくらい人が多いのが嫌だった。
i-podで音楽を聴きながら歩こう、そう思って取り出すと
こんな時に限って電池切れ。
朝、通勤の時には普通に聞けていたのに・・・。
しばらく歩いてから、カバンに入れておいたラジオを出す。
しかし、これも電池切れ・・・
予備に入れておいたはずの電池も見当たらない。
やれやれ、これじゃ非常用の意味がなるでないじゃないか。
今まで、非常時を考えていても、実は非常時なんて、
のように、自分がいかに軽く考えてのかを知らされた。
仕方がないので、見かけたコンビニに入る。
電池や携帯の充電池コーナーがぽっかりと空いていた。
それでも残っていた単4電池と、
行動食となるアメとチョコレートと水を買って店を出て、再び歩き始めた。
相変わらず人は多く、幹線道路はほとんど車で埋め尽くされていた。
ラジオをつけて聞いてみる。
軽快な音楽などはやっておらず、
ひたすら地震情報、ニュースを流している。
緊急情報があるかもしれないと、しばらくは聞きながら歩いたが、
気持ちも暗くなるし、面白くないのでやめてしまった。
住宅の間を抜ける道は、車も走っていなくて、人もほとんど歩いていない。
気持ちよく自分のペースで歩けた。
それが一歩大きな道路へ出ると、車、車、車・・・人、人、人・・・
スーツで革靴というスタイルで歩いていたせいか、
予想以上に疲れてくる。
それでも、半分の10キロあたりまでは頑張ろうと歩く。
今まで何度も車で通った事がある道なのに、
人やら車の多さと、また目線が歩きながらといつもと違うからか
自分がどこを歩いているのか分からない時もあった。
そんな時でも携帯のナビは非常に助かった。
電池の消耗を考えて、ずっと見ながらではなく、
ポイントとなる目印を調べそこまで歩いて、また先を確認し、ではあったが、
十分であった。
しかし、車や電車で通っていた道が、あんなにあっと言う間の一駅が
こんなに遠かったとは・・・
--------------------------------------------------
だいたい半分くらいかな?と言うあたりまで歩いて、
ちょっと休憩をした。
疲れてはいたけれど、まだ休むほどではない、
そんな思いもあったが、
今まで歩いたのと同じだけの距離をこれから歩かなければ
ならないのだ、ということを考えて、
休む事を選択した。
脇の路地を入ったマンションの花壇のような一角。
レンガでできた植え込みのヘリに腰掛けて、
水を飲む。
チョコレートを割ってかじる。
タバコを吸って、携帯灰皿でもみ消す。
そんなに長くは休んでいなかったと思う。
立ちあがり、すぐ近くにあった公衆電話から自宅に電話し、
現在地と、到着予定時間を告げた。
嫁の携帯にも電話してみるが、やはり携帯はまだ通じない。
メールをしても返事を来ないところをみると、
電池切れもしているのかもしれない。
僕は再び歩きだした。
--------------------------------------------------
足の重さ、疲労を感じ始めた。
相変わらず人は多い。
携帯で見ていた地図は、Googleの地図で、
それでナビも起動していたが、それがアクセスできなくなった。
おそらくだけど、時間が遅くなって歩く人が増えるに従って、
利用する人も増えたのかもしれない。
まぁ、だいぶ土地勘のある場所でもあるし、
と、地図で次の曲がり角だけを確認しながら歩いた。
街道筋にある自転車屋さん、バイク屋さん、
もちろんもう店は閉まっていたけれど、
無理にでも開けてもらって、
自転車か原チャリでも売ってもらいたい、
そんな思いもよぎり始める。
あとで考えれば、自転車はともかく、原チャリなんてナンバー申請しなければ
いけないから、即渡しなんてできるはずもなく、夜じゃ役所もやっていないんだよね。
ともかく、そんな思いがよぎるくらいだから、結構疲れ始めていたんだと思う。
それでも、僕は歩いた。
歩きながら何を考えていたか、もう覚えていない。
でも、歩くこと、道の事、それくらいしか考えていなかったんだと思う。
川を渡り、ちょっと歩いて顔をあげると、そこはスカイツリーのすぐ近くだった。
歩きながらそびえるスカイツリーを見て、
「お、スカイツリー無事だったんだ。さすがだねぇ。でも、夜のスカイツリーすげぇ」
なんてことを思った事は覚えている。
疲労感は増してくる。
それほど強くはない風が、やけに冷たく感じる。
もう距離とか時間とかなんてどうでもよくなっていた。
とりあえず、風の当たらない場所に座り、一服。
目の前を人が次々に歩いていく。
自分が歩いている時は気付かなかったが、
色んな人が歩いている。
その人波をボーっと見つめた。
そして、再び立ち上がった。
この頃に、足の痛みを感じ始めていたんだっけ。
--------------------------------------------------
大きな街道を歩く。
今までも何本か川を渡って来たけれど、
ここで2本の川をまたぐ大きな橋を渡る事になった。
冷たい風が吹いている。
川面は黒々とし、波でキラキラ妖しく光る。
もしここでまた大きな地震が来て、
橋が落ちるような事があったら・・・
今まで歩いて来ている時に考えもしなかったような事を思う。
ちょっとゾッとした。
ツイッターなどで情報を得ながら、そして、気を紛らわしながら歩く。
自分が歩いていることもつぶやいてみる。
「頑張って」などの返信に、自分の想像以上の元気をもらえた。
同じ頃、静岡や大阪などの離れた場所にいる友人、知人から
メールが届く。
電池なくなっちゃうよ~、なんて思いつつも、
それでも、そんなメールがありがたい。
歩きながら返事を打つ。
遠くで救急車や消防車のサイレンがひっきりなしに鳴っていた。
何かが起きているのかもしれない、
ちょっと不安になる。
またしばらく歩くと、道沿いのある一軒の家の人が家の前に立って、
声を出していた。
「みなさん、お疲れ様です。よかったら、うちのトイレ使ってください。」
手には段ボールで作った「トイレ使ってください」と書かれた札が持たれていた。
僕は大丈夫だったし、その家のトイレを使わせてもらいはしなかったけれど、
それでも、その人の行為、存在がありがたく、
涙が出そうになった。
人って、捨てたもんじゃない。
足は痛くなってきていたし、先はまだ長かったけど、
でも、歩ける、そう思える元気をもらえた。
--------------------------------------------------
大きな街道と街道をつなぐ道へ入る。
歩いている人の数はぐんと減った。
その代わり、片側一車線しかないその道の、
千葉方面へ向かう車線だけは車が埋め尽くしていた。
自家用車、バス、タクシー・・・ピクリとも動かない。
僕の住んでいる市川行きのバスも車線にいたが、
あまりの動かなさから乗る気持ちも起きなかった。
道沿いの焼き鳥屋さんには人も入っていて、
美味しそうな匂いもしている。
入りたい気持ちが湧いてくる。
むしょうにビールが飲みたくなる。
でも、こんな所でビールなんて飲んだら歩けなくなる、
そう思い、誘惑を断ち切り歩き続けた。
地元行きのバスを何台追い越しただろう・・・
足はだんだん重くなり、痛みを増してくる。
しかし、歩き続けるしかなかった。
--------------------------------------------------
昔の本を読むと、江戸時代もちろん、明治時代くらいになっても、
所謂、交通の手段は足しかなかった。
なので、人びとは歩いた。
火付盗賊改方の巡回、江戸城周辺の役宅への出勤、
明治時代の学生の通学や、出勤などもみんな歩き。
それも、よくよく見れば結構な距離を毎日歩いている。
旅行に行くのだって、江戸から京都、大阪、お伊勢さんまでも、
それこそ蘭学修行の長崎までも歩いていた。
そう考えれば、自分だって歩けないはずはない、
そんな風に思って歩き出したけど、
結構辛いじゃん。
昔の人ってすごいよなぁ・・・・
そんな風にも思った。
--------------------------------------------------
うちの近くを通る国道まで出た。
また歩いている人の数が増えた。
ここからは3キロくらいだろうか?
気落ち的にはだいぶ楽になったが、
足は結構辛くなってきていた。
歩いていると、嫁からメールが届く。
携帯の電池が切れていた事、
一緒にいた友人宅へ無事に避難している事などが書かれていた。
試しに携帯に電話してみるも、やはりつながらないので、
そのお宅の固定電話の番号を知らせるように、
と歩きながら返信をした。
しばらくして、帰ってきたメールに書いてあった電話番号に、
みつけた公衆電話から電話して、とりあえず、話をすることができた。
後ろに人も並んでいたので、お互いの状況を話して、電話を切った。
携帯が普及して、公衆電話の利用率が下がったからということで、
公衆電話の撤去があちこちで行われているが、
こうなってみると、携帯なんて使えないじゃん。
公衆電話の方がすごいじゃん。
まったく人は、便利だとか、効率だとかって言ってさ…・
なんて思った。
足の痛みは一層増してきた。
あと少しだ。
--------------------------------------------------
歩いていると信号につかまった。
足も痛かったし、結構、疲れてもいたので、
ガードレールに腰掛けた。
他にも何人か同じように腰をかけた。
みんな同士。
みんな疲れてるんだよね。
僕の横はもう小さなスペースしか空いていなかったのに、
女の子が一人そこに腰掛けようとしていたから、
少しずれて場所を空けたあげた。
信号が変わるまで意外に時間が長い。
そのOLさんらしい女の子とどちらからともなく話をした。
すると、同じ市川の住人であることを知り、
もう少しだから頑張りましょう、みたいな話を皮切りに、
一緒に話しながら歩くことになった。
足はもう限界かと思うくらい痛かったけれど、
女の子の手前カッコ悪いとこは見せられない、という見栄と、
同じ境遇の誰かと、一緒いいられる心強さのようなものもあって、
それまでよりは元気に歩けたのが不思議。
お互いが地震が起きた時のことを交互に話し、
何処から歩いてきたかを話し、
それまでの道中について話した。
少し歩くと、その女の子は道路標識に「市川橋」の文字を見つける。
市川橋とは、東京都と千葉県の県境を流れる江戸川にかかる橋の事。
「市川橋って書いてありますよ!」
「うん、まだ距離はあるけど、もうすぐだって実感がわくね」
なんて話し笑い合う。
他愛もない事を話しながら、ひたすら歩く。
そして、やっと、その市川橋を渡る事になった。
たくさんの人が歩いて市川橋を渡っている。
僕らの少し前の方の人たちが、
「「ようこそ千葉へ」って書いてある!」と叫ぶ。
それを聞いて、歩いているみんなから「お~!」と声が上がった。
もちろん、僕らも「やっと帰って来たねぇ」と話した。
なんだろうね、この一体感。
いつもはたいして気にもとめていなかった「ようこそ千葉へ」の看板が
こんなにもありがたかったことはない。
橋を渡り切って、もうしばらく真っ直ぐ行く彼女と、川沿いに進路を変える僕とは
分かれる事になる。
「気をつけて」そう言い、また歩き出した。
男って馬鹿だよな、とつくづく思ったのは、
彼女を分かれた途端に、足の痛みがその前よりひどくなっていた事に
気づいた時。
半ば、足を引きずるように川に沿って家を目指した。
--------------------------------------------------
家までもうすぐ、という所で、ふと考えた。
今晩だって、明日だってどうなるか分からない。
何もなくても、とりあえず、明日はまた出社しなくてはいけない。
行きたくないけどね。
家に母親一人残していくなら、食べ物を確保しなきゃ・・・
体力的には限界で、そのまま家に帰りたかったけれど、
ちょっと遠回りしてコンビニへ行った。
働かない頭で、店内を見渡す。
すぐに食べられるような、パンやおにぎりは売り切れ。
仕方がないので、目についたインスタント食品や、冷凍食品、
腹もちのよさそうなお菓子などを適当にかごに入れて買う。
店を出て家に向かう。
普段ならここからは10分もかからないで歩ける距離だ。
その距離をどのくらいかかっただろう?
なんとか家にたどり着く事が出来た。
--------------------------------------------------
誰もこんなの最後まで読んでないだろうな。
もし読んでくれた人がいるなら、ありがとう。
歩いたことで、人との一体感、人のありがたさ、など普段では考えなかったような
ことに気づかされました。
-------------------------------------------------------
後日談だけど、あの時僕が昼ご飯を食べていた店、
地震に驚き、何人かの人が会計もせずに外に飛び出して行った。
あとでお店の人と話をしたら、
何日か経ってからでも、ちゃんとお金払いに来てくれました、
って言ってた。
海外じゃ考えられないですよね、とも。
日本人て、やっぱりなんかすごいや。
読み物でもなく、単なる記憶をとどめるための記録のようなものです。
長いです。面白くないです。
なので、読まないでいただいていいですよ。
本当に面白くないと思うから。
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前日の20時くらいまで僕は清里にいた。
いつものように清里を車で後にし、普通に中央道を走りぬけて
自宅のある千葉県市川市にたどりついた。
特に変わった事もなく、インターを降りて自宅へ向かった。
ただ一つ違っていたのは、
車の中から見た低い夜空に浮かぶ月が、
今まで見た事もないくらい大きく、
そして気持ちの悪いくらい赤かったこと。
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この地震が起きた日、起きた時、
僕はそれまでは普通に仕事をし、
昼ご飯を食べに出ていた。
場所は会社のあるすぐ近くのビルのB1。
食べ終わって、タバコを一本吸い終わったちょうどその頃
地震は始まった。
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ゆっくりとした揺れに始まり、その揺れはどんどん強さを増していく。
関東は地震の多い所で、慣れてはいるけれど、
普段ならそろそろおさまるだろうと、心も体も予期しているのに、
あっさりとそれを裏切る感じで揺れは強くなり、ずっと続いていた。
ちょっと不謹慎な例えかもしれないが・・・
富士急ハイランドのフジヤマに乗った事があるだろうか?
登ってから急降下するあの時、
通常のジェットコースターならもう上りに移るだろう、と
体は反応してるのに、それでもまだ落ち続ける
その時の怖さは、それに似ていた。
以前から噂されていた関東大震災、東海地震がついに来た!
そう思った。
とりあえず、職場に戻り、状況確認を、
なんてことも頭をよぎるが、とても外に出られるどころではない。
食事をしていた店の、天井から吊るされた重そうな金属の傘をまとった
電灯は今にも天井にぶつかるのではないか?
と思えるくらい大きく揺れていた。
厨房にあるグラスなどが大きな音を立てている。
地鳴りのような音も聞こえてくる。
店内にいたお客さんの中にはパニックになって外に飛び出す人もいた。
テーブルの下に隠れる人もいた。
まさに騒然としていた。
正直、自分がどうしたらいいのか分からなかった。
外に出たい気持ちもあるが、ビルの窓ガラスが割れて落ちてきたら・・・
こんな地下にいて、もしビルが崩れたら・・・
おさまらない揺れの中、考える余裕がない中で、
色々な事が頭に浮かぶ。
ひょっとしたら、ここでもう・・・
という思いすら頭をよぎった。
それでも、平静を装っていた気がする。
顔はひきつっていたのかもしれないけれど。
とりあえず、揺れが収まったところで、会計を済ませて、
仕事場へ戻った。
仕事場でのことはとりあえず省く。
ただ、仕事場の建物も場所によっては、それなりの被害損壊が出た事、
建物の外も人があふれ、すごい状態であったことだけは書いておきたい。
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続いてやってくる大きな余震の中、
職場でやることをやる。
頭にあったのは家族の事。
嫁は所用で外出していた。
仕事の合間に携帯で電話するも、電話はまるでつながらない。
メールも送れない状態の中、何度か送信を繰り返し、
とりあえず送れた。
しばらくして、返事が来て、無事であることを知る。
赤ん坊を連れた友人と一緒で、友人の自宅へ向かう事も
書かれていた。
自宅には僕の母親が一人でいる。
公衆電話から固定電話なら通じる事を聞き、かけてみる。
無事ではあるが、かなり動揺している様子がうかがえた。
自宅の様子聞き、とにかく自宅にいるように話した。
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あれだけの地震だったので、東京の電車はことごとく止まっていた。
まぁ、想定される事ではあったけれど。
仕事場から、帰れる者は帰っていい、という指示が出る。
帰れない者は、会社に泊まって構わない、とも。
会社に泊まることも考えたが、今日は嫁が帰れない以上、
一人でいる母親の事を考え、
自宅へ戻る事にした。
携帯の地図で自宅までの道を確認する。
距離は20キロちょっと。
便利な物でスマートフォンでは、地図が見られるだけでなく、
徒歩でのナビまでしてくれる。
それによれば時間は4時間と出ていた。
会社の建物を出る。
その人の多さにまた驚かされた。
通常のどんな夜よりも人が多い。
仕事場のある東京 池袋の大きな祭りの日よりも
人が多かった気がする。
そんな中僕は歩きだした。
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人ゴミをすり抜けるように歩く。
自分のペースで歩けないくらい人が多いのが嫌だった。
i-podで音楽を聴きながら歩こう、そう思って取り出すと
こんな時に限って電池切れ。
朝、通勤の時には普通に聞けていたのに・・・。
しばらく歩いてから、カバンに入れておいたラジオを出す。
しかし、これも電池切れ・・・
予備に入れておいたはずの電池も見当たらない。
やれやれ、これじゃ非常用の意味がなるでないじゃないか。
今まで、非常時を考えていても、実は非常時なんて、
のように、自分がいかに軽く考えてのかを知らされた。
仕方がないので、見かけたコンビニに入る。
電池や携帯の充電池コーナーがぽっかりと空いていた。
それでも残っていた単4電池と、
行動食となるアメとチョコレートと水を買って店を出て、再び歩き始めた。
相変わらず人は多く、幹線道路はほとんど車で埋め尽くされていた。
ラジオをつけて聞いてみる。
軽快な音楽などはやっておらず、
ひたすら地震情報、ニュースを流している。
緊急情報があるかもしれないと、しばらくは聞きながら歩いたが、
気持ちも暗くなるし、面白くないのでやめてしまった。
住宅の間を抜ける道は、車も走っていなくて、人もほとんど歩いていない。
気持ちよく自分のペースで歩けた。
それが一歩大きな道路へ出ると、車、車、車・・・人、人、人・・・
スーツで革靴というスタイルで歩いていたせいか、
予想以上に疲れてくる。
それでも、半分の10キロあたりまでは頑張ろうと歩く。
今まで何度も車で通った事がある道なのに、
人やら車の多さと、また目線が歩きながらといつもと違うからか
自分がどこを歩いているのか分からない時もあった。
そんな時でも携帯のナビは非常に助かった。
電池の消耗を考えて、ずっと見ながらではなく、
ポイントとなる目印を調べそこまで歩いて、また先を確認し、ではあったが、
十分であった。
しかし、車や電車で通っていた道が、あんなにあっと言う間の一駅が
こんなに遠かったとは・・・
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だいたい半分くらいかな?と言うあたりまで歩いて、
ちょっと休憩をした。
疲れてはいたけれど、まだ休むほどではない、
そんな思いもあったが、
今まで歩いたのと同じだけの距離をこれから歩かなければ
ならないのだ、ということを考えて、
休む事を選択した。
脇の路地を入ったマンションの花壇のような一角。
レンガでできた植え込みのヘリに腰掛けて、
水を飲む。
チョコレートを割ってかじる。
タバコを吸って、携帯灰皿でもみ消す。
そんなに長くは休んでいなかったと思う。
立ちあがり、すぐ近くにあった公衆電話から自宅に電話し、
現在地と、到着予定時間を告げた。
嫁の携帯にも電話してみるが、やはり携帯はまだ通じない。
メールをしても返事を来ないところをみると、
電池切れもしているのかもしれない。
僕は再び歩きだした。
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足の重さ、疲労を感じ始めた。
相変わらず人は多い。
携帯で見ていた地図は、Googleの地図で、
それでナビも起動していたが、それがアクセスできなくなった。
おそらくだけど、時間が遅くなって歩く人が増えるに従って、
利用する人も増えたのかもしれない。
まぁ、だいぶ土地勘のある場所でもあるし、
と、地図で次の曲がり角だけを確認しながら歩いた。
街道筋にある自転車屋さん、バイク屋さん、
もちろんもう店は閉まっていたけれど、
無理にでも開けてもらって、
自転車か原チャリでも売ってもらいたい、
そんな思いもよぎり始める。
あとで考えれば、自転車はともかく、原チャリなんてナンバー申請しなければ
いけないから、即渡しなんてできるはずもなく、夜じゃ役所もやっていないんだよね。
ともかく、そんな思いがよぎるくらいだから、結構疲れ始めていたんだと思う。
それでも、僕は歩いた。
歩きながら何を考えていたか、もう覚えていない。
でも、歩くこと、道の事、それくらいしか考えていなかったんだと思う。
川を渡り、ちょっと歩いて顔をあげると、そこはスカイツリーのすぐ近くだった。
歩きながらそびえるスカイツリーを見て、
「お、スカイツリー無事だったんだ。さすがだねぇ。でも、夜のスカイツリーすげぇ」
なんてことを思った事は覚えている。
疲労感は増してくる。
それほど強くはない風が、やけに冷たく感じる。
もう距離とか時間とかなんてどうでもよくなっていた。
とりあえず、風の当たらない場所に座り、一服。
目の前を人が次々に歩いていく。
自分が歩いている時は気付かなかったが、
色んな人が歩いている。
その人波をボーっと見つめた。
そして、再び立ち上がった。
この頃に、足の痛みを感じ始めていたんだっけ。
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大きな街道を歩く。
今までも何本か川を渡って来たけれど、
ここで2本の川をまたぐ大きな橋を渡る事になった。
冷たい風が吹いている。
川面は黒々とし、波でキラキラ妖しく光る。
もしここでまた大きな地震が来て、
橋が落ちるような事があったら・・・
今まで歩いて来ている時に考えもしなかったような事を思う。
ちょっとゾッとした。
ツイッターなどで情報を得ながら、そして、気を紛らわしながら歩く。
自分が歩いていることもつぶやいてみる。
「頑張って」などの返信に、自分の想像以上の元気をもらえた。
同じ頃、静岡や大阪などの離れた場所にいる友人、知人から
メールが届く。
電池なくなっちゃうよ~、なんて思いつつも、
それでも、そんなメールがありがたい。
歩きながら返事を打つ。
遠くで救急車や消防車のサイレンがひっきりなしに鳴っていた。
何かが起きているのかもしれない、
ちょっと不安になる。
またしばらく歩くと、道沿いのある一軒の家の人が家の前に立って、
声を出していた。
「みなさん、お疲れ様です。よかったら、うちのトイレ使ってください。」
手には段ボールで作った「トイレ使ってください」と書かれた札が持たれていた。
僕は大丈夫だったし、その家のトイレを使わせてもらいはしなかったけれど、
それでも、その人の行為、存在がありがたく、
涙が出そうになった。
人って、捨てたもんじゃない。
足は痛くなってきていたし、先はまだ長かったけど、
でも、歩ける、そう思える元気をもらえた。
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大きな街道と街道をつなぐ道へ入る。
歩いている人の数はぐんと減った。
その代わり、片側一車線しかないその道の、
千葉方面へ向かう車線だけは車が埋め尽くしていた。
自家用車、バス、タクシー・・・ピクリとも動かない。
僕の住んでいる市川行きのバスも車線にいたが、
あまりの動かなさから乗る気持ちも起きなかった。
道沿いの焼き鳥屋さんには人も入っていて、
美味しそうな匂いもしている。
入りたい気持ちが湧いてくる。
むしょうにビールが飲みたくなる。
でも、こんな所でビールなんて飲んだら歩けなくなる、
そう思い、誘惑を断ち切り歩き続けた。
地元行きのバスを何台追い越しただろう・・・
足はだんだん重くなり、痛みを増してくる。
しかし、歩き続けるしかなかった。
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昔の本を読むと、江戸時代もちろん、明治時代くらいになっても、
所謂、交通の手段は足しかなかった。
なので、人びとは歩いた。
火付盗賊改方の巡回、江戸城周辺の役宅への出勤、
明治時代の学生の通学や、出勤などもみんな歩き。
それも、よくよく見れば結構な距離を毎日歩いている。
旅行に行くのだって、江戸から京都、大阪、お伊勢さんまでも、
それこそ蘭学修行の長崎までも歩いていた。
そう考えれば、自分だって歩けないはずはない、
そんな風に思って歩き出したけど、
結構辛いじゃん。
昔の人ってすごいよなぁ・・・・
そんな風にも思った。
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うちの近くを通る国道まで出た。
また歩いている人の数が増えた。
ここからは3キロくらいだろうか?
気落ち的にはだいぶ楽になったが、
足は結構辛くなってきていた。
歩いていると、嫁からメールが届く。
携帯の電池が切れていた事、
一緒にいた友人宅へ無事に避難している事などが書かれていた。
試しに携帯に電話してみるも、やはりつながらないので、
そのお宅の固定電話の番号を知らせるように、
と歩きながら返信をした。
しばらくして、帰ってきたメールに書いてあった電話番号に、
みつけた公衆電話から電話して、とりあえず、話をすることができた。
後ろに人も並んでいたので、お互いの状況を話して、電話を切った。
携帯が普及して、公衆電話の利用率が下がったからということで、
公衆電話の撤去があちこちで行われているが、
こうなってみると、携帯なんて使えないじゃん。
公衆電話の方がすごいじゃん。
まったく人は、便利だとか、効率だとかって言ってさ…・
なんて思った。
足の痛みは一層増してきた。
あと少しだ。
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歩いていると信号につかまった。
足も痛かったし、結構、疲れてもいたので、
ガードレールに腰掛けた。
他にも何人か同じように腰をかけた。
みんな同士。
みんな疲れてるんだよね。
僕の横はもう小さなスペースしか空いていなかったのに、
女の子が一人そこに腰掛けようとしていたから、
少しずれて場所を空けたあげた。
信号が変わるまで意外に時間が長い。
そのOLさんらしい女の子とどちらからともなく話をした。
すると、同じ市川の住人であることを知り、
もう少しだから頑張りましょう、みたいな話を皮切りに、
一緒に話しながら歩くことになった。
足はもう限界かと思うくらい痛かったけれど、
女の子の手前カッコ悪いとこは見せられない、という見栄と、
同じ境遇の誰かと、一緒いいられる心強さのようなものもあって、
それまでよりは元気に歩けたのが不思議。
お互いが地震が起きた時のことを交互に話し、
何処から歩いてきたかを話し、
それまでの道中について話した。
少し歩くと、その女の子は道路標識に「市川橋」の文字を見つける。
市川橋とは、東京都と千葉県の県境を流れる江戸川にかかる橋の事。
「市川橋って書いてありますよ!」
「うん、まだ距離はあるけど、もうすぐだって実感がわくね」
なんて話し笑い合う。
他愛もない事を話しながら、ひたすら歩く。
そして、やっと、その市川橋を渡る事になった。
たくさんの人が歩いて市川橋を渡っている。
僕らの少し前の方の人たちが、
「「ようこそ千葉へ」って書いてある!」と叫ぶ。
それを聞いて、歩いているみんなから「お~!」と声が上がった。
もちろん、僕らも「やっと帰って来たねぇ」と話した。
なんだろうね、この一体感。
いつもはたいして気にもとめていなかった「ようこそ千葉へ」の看板が
こんなにもありがたかったことはない。
橋を渡り切って、もうしばらく真っ直ぐ行く彼女と、川沿いに進路を変える僕とは
分かれる事になる。
「気をつけて」そう言い、また歩き出した。
男って馬鹿だよな、とつくづく思ったのは、
彼女を分かれた途端に、足の痛みがその前よりひどくなっていた事に
気づいた時。
半ば、足を引きずるように川に沿って家を目指した。
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家までもうすぐ、という所で、ふと考えた。
今晩だって、明日だってどうなるか分からない。
何もなくても、とりあえず、明日はまた出社しなくてはいけない。
行きたくないけどね。
家に母親一人残していくなら、食べ物を確保しなきゃ・・・
体力的には限界で、そのまま家に帰りたかったけれど、
ちょっと遠回りしてコンビニへ行った。
働かない頭で、店内を見渡す。
すぐに食べられるような、パンやおにぎりは売り切れ。
仕方がないので、目についたインスタント食品や、冷凍食品、
腹もちのよさそうなお菓子などを適当にかごに入れて買う。
店を出て家に向かう。
普段ならここからは10分もかからないで歩ける距離だ。
その距離をどのくらいかかっただろう?
なんとか家にたどり着く事が出来た。
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誰もこんなの最後まで読んでないだろうな。
もし読んでくれた人がいるなら、ありがとう。
歩いたことで、人との一体感、人のありがたさ、など普段では考えなかったような
ことに気づかされました。
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後日談だけど、あの時僕が昼ご飯を食べていた店、
地震に驚き、何人かの人が会計もせずに外に飛び出して行った。
あとでお店の人と話をしたら、
何日か経ってからでも、ちゃんとお金払いに来てくれました、
って言ってた。
海外じゃ考えられないですよね、とも。
日本人て、やっぱりなんかすごいや。
この記事へのコメント
私が多分第1号かな…?!
ぱやさん、本当に本当に大変でしたね。
地震の時、地下にいたなんて、
とても怖かったことと思います。
ぱやさんの記録を読みながら、
私も当日のことをいろいろ思い出してしまいました。
ちょうど取材中だったこと、
明野の森の中、高いアカマツに囲まれた場所にいたこと、
人物の写真を撮るために、建物の外に出て、
カメラを構えた直後に揺れ始めたこと…
アカマツが激しく揺れて、地面が波打ったこと…
あの日のこと、あの時の感情、
きっと一生忘れることは無いと思うし、
忘れてはならないのでしょうね。
もう一度、冷静に思い出すきっかけを与えていただき、
どうもありがとうございました…!
いや、読んでくれてありがとう。
もっと早くアップしようと思い、書きかけてはいたんだけど、
なかなか最後までいけなくて。
でも、とりあえず、どんな形でも書いとかなきゃ、
と思って。
本当に色々と考えさせられる日だったよね。
いっぱい書きたい事はあるのですが、
それはあえてやめて、歩いた話だけ書きました。
ただ、おっしゃる通り東京はあっさりと
通常の生活に戻っています。
節電とか、物資の分け合いとか、
停電のために見た暗い夜の豊さとか、
そういうものを忘れてしまっている
ような気がして、それが度重なる余震よりも
実は心配だったりします。
教訓を実行にむけて活動し、いつかこんなこともあったと言える日にしていきましょう
ただ、この人間の、日本人の強さは改めて素晴らしいと感じました。
この強さを、震災で学んだはずの教訓にしたがい、
いい方向で発揮できるといいと思います。
初めてです、、
最後まで 読みながら
長いドラマ(映画)を見ているように・・
最後になって 貴方の気分そのままに
ほっ!としました
足跡 残します
つたない文章ながら、あの時の気持ちをわすれないでいたい、と
それだけで書きました。
こういう日記はあんまりないんですけど。
よかったら、また遊びに来てください。